インドネシアの犠牲祭

  • 2015/12/13
  • Indonesia

農作業中の女性

犠牲祭が行われた

先月(*2015年は9月24日)、イスラム教の祭りのひとつである、犠牲祭(イドゥール・アドハ)が行われた。犠牲祭は、旧約聖書の中の登場人物であるイブラヒーム(アブラハムとも呼ばれる)が、神様に命じられて息子イスマイール(イサクとも呼ばれる)を生け贄に捧げようとした結果、神様からの慈悲を受けて、息子の代わりに羊を生け贄に捧げるように命じられたことが始まりとされる。現在では、イスラム教徒はメッカ大巡礼が終わる時期に毎年犠牲祭を行っている。

生け贄になる牛を購入

インドネシアでは、犠牲祭にヤギか牛を生け贄にすることが多い。犠牲祭で生け贄にされたヤギや牛は、イスラム教徒が死後に天国へ向かう際の乗り物になるそうだ。ちなみに一頭のヤギはひとり、一頭の牛は7人のための生け贄になる。我が家では毎年2人ずつ、義父の家族と義母の家族の生け贄に参加している。今年は義母と私が参加した。毎年牛の値段が多少変わるけれど、大体一人2万5千円くらい払う。犠牲祭が近づいてくると、町中の空き地に生け贄用のヤギや牛を売る店が立ち始める。しかし良い商品はあっという間に売り切れてしまうため、我が家の犠牲祭のための生け贄は2ヶ月くらい前から選び始めている。断食月が終わった後の祝日に家族が集まったとき、「今年の犠牲祭はどうしようか」と話し合われることが多い。断食月が終わってから犠牲祭までの約2ヶ月間、義母はいつも以上に親戚と連絡を取り合って、親族の連携プレーでより良い牛を探していくのだ。

空き地に犠牲祭用のヤギを売る店

犠牲祭の日は朝からお祭りムード

犠牲祭当日は朝早くに家の前の大通りで集団礼拝が行われる。この集団礼拝はイスラム教の義務ではないけれど、毎年大勢の人が参加している。大通りに町中の人が集まって一緒に礼拝する光景は圧巻だ。残念ながら私は家で子守をしていたため、集団礼拝を撮影する事が出来なかった。この早朝の屋外集団礼拝は断食月明けと犠牲祭の日にしか行われていないので、次の撮影チャンスは来年になってしまう。この集団礼拝が終わったら、家族みんなで義父と義母の親戚の家に挨拶に行く。2箇所の生け贄をはしごするので、朝からなかなか忙しい。

初めに訪れたのは義父の妹の家だ。犠牲祭の生け贄は義父の妹の家の裏庭にいた。背は低いけれど丸々太っている。一本の木に縛られて子供たちに囲まれているせいか、落ちつかなそうに周囲を見回していた。しばらくすると生け贄を行う専門の業者さんがやって来て、今日の段取りを説明する。その後ウスタッドと呼ばれるイスラム教学者の先生が来て、生け贄に参加する人の名前とその人の父親の名前を確認する。これは生け贄として殺すとき、「この生け贄は誰々のものですよ」と、牛なら7人の人の名前を読み上げて「ビスミッラー(アッラーの御名において)」という言葉とともに首を切って殺すためだ。

大人数人がかりで牛を倒す

牛がやっと倒れた!

背が低いけれど丸々太った牛は抵抗も激しかった。牛に掛けた縄を綱引きのように引きながら、大の大人が数人がかりで押さえ込む。どしんっという音がして牛が地面に倒れたら、牛を落ち着かせるようにぽんぽんとお腹の辺りを叩いていた。いよいよ牛を生け贄として殺すときになると、今まで傍観していた周りの人たちが一斉に「アッラーフアクバル(アッラーは偉大なり)」という言葉を何度も何度も合唱する。「今から殺すんだな」という不思議な緊張感のもと、ウスタッドの手によって牛の首が切られた。咳のような息のようなゴウゴウヒューという大きな音が牛から聞こえる。牛の筋肉が痙攣して足が動き、首がないのにまだ生きているかのようだ。むわっと血の匂いが広がる。怖いもの見たさで切られた牛の頭を覗いてみると、首から流れ出ている血の色は真っ赤というよりもピンク色に近かった。

屠殺を見守る人々

屠殺について考える

ずっと前にドイツのドキュメンタリー映画の「いのちの食べ方」で観た牛の屠殺の一部シーンは、工場の中でベルトコンベアーに乗って運ばれて来る牛たちが、一頭ずつ大きな機械の中で電気ショックを受けて倒されていくシーンだった。それを観たときは正直、「生き物を殺すってこんなに簡単で良いのかな」ともやもやとした疑問が生まれた。そのもやもやとした疑問は、牛という大きな生き物を殺すにはもっと大きな力が必要なのではないかという漠然としたイメージから出てきたのだと思う。インドネシアに来て私は初めてイメージ通りの屠殺を見ることになった。昔から変わらないこの屠殺方法は、牛の巨体から生を奪うことに対して対等な努力を人間側がしている。「生き物の首を切って殺す方法は残酷だ可愛そうだ」という意見があるかもしれないけれど、私はイスラム教のこの屠殺方法を見て、人間が見えないところで機械が代わりに屠殺を行う方がむしろずっと残酷なことなのではないかと感じた。けれど牛肉を毎日スーパーでコンスタントに売るためには、映画のような屠殺方法が一番効率的で、人間の精神的体力的な負担にならないことは事実だ。

犠牲祭の日の子供たち

生け贄の牛の肉を施すまでが犠牲祭

首を切られた後は業者の人たちによって、慣れた手つきで解体されていく。そして牛の重さを天秤で正確に測って、解体作業と同時進行で自分たちが食べる分と貧しい人たちへの施しの分を計算していく。犠牲祭で屠殺した生け贄の肉を貧しい人たちに分け与えることは、イスラム教では義務となっている。どれだけの割合を施すのかも正確に定められているため、計量作業は真剣に行われる。今年は200人の貧しい家庭に200gずつの牛肉を分けることになった。

牛の重さを測定する

今は牛肉の値段が高騰していて、貧しい家庭では滅多に牛肉が食卓に上がることがないため、生け贄の肉の施しを受けた人たちはとても嬉しそうだった。イスラム教では貧しい人たちへの「施し」をとても良いことだとしている。犠牲祭以外にも、断食月の間に妊娠や病気が理由で断食が出来なかった人は出来なかった日にち分だけ普段食べる食料を貧しい家庭に施すことも定められている。そして義務ではないけれど、イスラム教徒が行う事を推奨されている行動の中には、生まれた赤ちゃんの産毛と同量の金の値段を施しすることや、生まれた赤ちゃんが女の子だったら羊一頭、男の子だったら羊二頭を生け贄として、犠牲祭同様にイスラム法で決められた割合を貧しい家庭に施すなんてものもある。イスラム教ではいつもいろんな「施し」の機会があるのだ。

肉を施すためのリストを作る

自分の分の肉を調理する女性


(おまけ)牛の内臓を川で洗っている人たち






【参照】

・映画「いのちの食べ方」http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/






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